あろう事か、ブログのカテゴリに「尺八」が無かったので追加しました。

広い意味で「音楽」というのも今後追加せねばと思っています。

さて、せっかく追加したので最近の出来事を一つ。

私は母校である上智大学の箏曲部で尺八パートの講師を仰せつかっておりますが、それこそ学生の時分から変わらず50分×3コマある練習のうち最初のコマはロングトーンをやってきました。初心者も必ず一緒に練習するので、まず音が出やすい「リ」からそれぞれ5分前後ずつ、順番に「乙のロ」まで降りて行き、最後は「甲のロ」で終えることが多いと思います。1994年からなので、それこそ四半世紀!

しかしながら、年が経つほど難しく感じるのは気のせい…?いや違う、確かにそうだ。楽曲を演奏している最中に鳴らす感覚とは明らかに異なり、非常に納得のいかない音の山が築かれていくばかり。ああでもない、こうでもないと奮闘している間に終わってしまうようになりました。

思えば尺八を始めて数年から10年くらいは、ロングトーンに参加していても伸び伸びと音を鳴らし、達成感も得られていた様に記憶しています(音の良し悪しは置いておいて)。吹けば吹くほど楽器も身体も温まり、どんどん大きな音が出る様になっていったものです。

敢えて自分の演奏上の弱点を公開するようでお恥ずかしい限りですが、せっかくなのでこの機会に改めてロングトーンというものを考えてみたいと思います。

まず、ロングトーンで鳴らす音は、楽曲に存在するメロディーの助けがありません。その一音のみ飾りをつけず、できるだけ長く、できるだけ大きく、できるだけ美しく鳴らす行為なので、いわゆる曲を吹いているときの様にメロディーの表現力による助けがありません。また、メロディーを奏でないで一音のみを鳴らす時に、自身で理想の音を明確にイメージしたうえで鳴らすのも難しい気がします。さらに言えば、楽曲のフレーズの様に終わりが決まっていないので、息の配分もなんと言うか、非常に曖昧になってしまいます。楽曲を演奏する時は、尺八を通して様々な景色や心情、さらには哲学を表しますが、ロングトーンの場合はそれらが全く無い状態でひたすら自身が発する音と向き合わねばなりません。

そしてさらにロングトーンを難しくさせるのが「複数人」で同じ音で行う事です。同じ尺八という楽器で同じ音程を鳴らす中で、より大きく、より美しく、を目指しても、自分以外に5人、あるいは10人が同じ音を鳴らしている中で際立った音を鳴らすというのは難しい事です。またお互いに聞いている中ですから「ちゃんと毎本良い音を鳴らさなければ」というプレッシャーもあります。そんな中で、装飾音符をつけず、アタックもつけず、ユリ(ヴィブラート)をせず、ひたすらシンプルに鳴らしつつ存在感を示すというのは大変な事です。大勢で吹く前に、まずは個人でしっかりできている必要があります。

詰まるところ、ロングトーンは練習の一つというよりは、ロングトーン自体が一つの技術であり、そのための練習が必要なのです。一つの押さえ方で一音を何の飾りもつけずにごくシンプルに鳴らし、それ自体で成立させる。そこには何か楽曲のメロディーが持つ様々な人間の感情やストーリーや考え(あいでぃあ)が一切存在しない、自然界と同様のものを想像させるように思えます。

楽曲を演奏するための「練習」としてのロングトーンではなく、楽曲、あるいは音楽からも離れてロングトーンに取り組んだ時、新たな世界が見えるのではないでしょうか。

そう思うとロングトーンが特別なものに思えて来そうです♫